たった今飛んだ女学生は冗談か
こんばんはウルカ。
初めて訪れる都市の駅は、新品の自動車のような匂いがした。ホームにあるベンチには、膝をかかえるように男が座っている。キリキリとした寒さを、荒涼とした自己の時間軸を、何とか忘れようと、何とかやり過ごそうとしているのだろうか。少し踏み出せば、陽のあたるホームの尖端に出る事ができるのに。僕は膝を抱える男を後目に陽のあたるホームの尖端を目指す。
男がガタガタと膝をかかえるベンチから、ほんの数歩のところにあるホームの尖端に、僕は立っている。そこは陽光のあたるとても穏やかな場所であると想像していたが、実際は全くそうではなかった。針を含んだ鉄風が四方から吹き荒れ、断崖絶壁のホームの下には黝い奈落が渺渺と広がっている。そしてその絶望的な有様を、まざまざと陽光が照らしだしている。なるほど、あの男が隅陰のベンチを選ぶのもわかるな。
僕は凍える左手に持った小さな瓶から一口のウィスキーを飲む。昨日は随分と酒を飲んだ。気がついたらこんな見ず知らずの駅に立っている。千鳥足でこの奈落に落っこちなくて本当によかったよ。ほら、言っているそばから数メートル隣に立っていた女が奈落へ飛びおちる。随分経っても、底で身体が拉げる音は聞こえない。それを知って安堵したのか、勇気がでたのか、今度は初老の男が飛んだ。自殺の名所と言われるこの駅のホームには、立て看板や壁に死を慰留する言葉が書かれている。その上から下品な落書きが死を慰留する言葉を塗り殺している。ホームの尖端の地面にはきっぱりと停止線が描かれており、止まれと言う文字が、5ヶ国語で書かれている。停止線から先の45センチメートルほどの最後のスペースには、おびただしい数の禁死という文字が呪詛のようにスプレーで殴り書かれている。
ここは、おそらく世界で最も人口過密の都市であり、商業や創造の中心である。その都市の中央に位置するこの駅では、列車に飛び込み命を捨てるものが後を立たず、人身事故による列車遅延に頭を悩ませた鉄道会社は、ホームの下に奈落をつくった。以降、人身事故による列車の遅延は激減したが、奈落に飛び込み命を捨てるものは激増した。
というような内容が書かれた看板を駅のどこかで読んだ。
この奈落におちたらどうなるのだろう。
この奈落へおちる事は死ぬことと同然に考えられている。
けれど、本当は別の星にでもにつながっていて、長閑で、新鮮で、とても柔らかな森がむかえてくれるのかもしれない。
それを知る為におちる者もあるのだろうか。
おちなければわからない、おちれば伝えられないのなら、やっぱりそれは死ぬことと同じなのかな。
そんなことを考えている間にも、次々と人が奈落へ飛びおちてゆく。
たった今飛んだ女学生は、とてもキラキラと目を輝かせて、とてもこれから死ぬようには見えなかった。
問題を抱えた人間が次々に奈落へ消えてくれれば、人口過密のこの都市には、好都合なのかもしれない。
ホームの尖端に、僕は立っている。
結局、僕以外の人間は一人残らず、自ら奈落へ飛びおちていった。
ベンチの男もいつの間にか姿を消している。
残りの少なくなったウイスキーの小瓶をもって呆然と奈落を眺めていると、不思議そうな顔をした駅員が僕に近づいてきた。
駅員は流暢な日本語で、こう言った。
旅行ですか?
珍しいでしょう。
この都市の駅に列車はこない。
行き先の電子切符を買ったらここから飛び降りるだけです。
あっという間に目的地に着きますよ。
便利でしょう。
ああ、あの立て看板や壁の言葉や落書きですか?
勿論、ジョークですよ。
この駅も、この都市も、世界的に有名なのに何もご存知ないのですか?
珍しい方ですねぇ...
あれ?あなた、その電子切符はどこで手に入れたのですか?!
それは限られた人間しか持つことのできない、時間を行き来できる特別な電子切符ですよ!?
なになに、ああ、この電子切符の履歴をみると、あなたは2019年、東京駅から、2128年現在のここ、東京駅へやってきたようですね。
そういうと駅員は、僕の上着からはみ出していた、昨日繁華街で押し付けられるように渡された金融屋のチラシの入ったポケットティッシュを、宝物でも眺めるようにうっとりと見つめた。
なんだ、そうなんですね!あっはは!
と笑うと、僕は勢いよく奈落へと飛び込んだ。
後ろで駅員の声が聞こえる。
ちょっと!冗談ですよ!奈落になんか飛び込んだら死んでしまう!ああぁ…これだから酔っ払いは…
なんだ、冗談かよ。
僕は左手に持った小さな瓶から、一口のウィスキーを飲んだ。
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